宮崎学『法と掟と』解説  

宮崎学は本書で、個別社会という概念を提起している。それは、家族、村、労働組合、同業者組合、経済団体などのような基礎的な集団を意味するものである。社会学では、そのような社会は全体社会に対して部分社会と呼ばれている。宮崎がそれらを部分社会でなく個別社会と呼ぶのは、それらを、全体を構成する一部としてではなく、むしろ全体に抵抗する一部であるという意味合いでとらえようとするからだ。
もちろん、似たような考えは前からある。たとえば、政治学では、宗族・村落・ギルドなどを、国家と個人の間に存在するさまざまな集団の総称として、中間団体あるいは中間勢力と呼ぶ。これはモンテスキューの考えに由来するものである。モンテスキューは、一八世紀、絶対王政時代のフランスの思想家で、貴族や教会のような勢力を、王政が専制化することを妨げる中間勢力として評価した。通常は、貴族や教会はアンシャンレジーム(旧体制)の象徴であり、フランス革命によって打倒されたと考えられている。実際その通りで、モンテスキューのような見方はフランス革命以前には貴族擁護派の意見として見えなかった。しかし、旧勢力を一掃したフランス革命によって生まれた革命政権はロベスピエールの独裁体制となった。そのような経験から、中間勢力の存在が専制権力の実現を妨げるというモンテスキューの考えが、新たな意味を帯びて受け入れられるようになったのである。
宮崎学のいう個別社会は、中間勢力あるいは中間団体とほぼ同義である。なぜなら、それは全体社会のたんなる一部ではなく、全体社会に抵抗するような一部を意味するからである。しかし、個別社会というとき、宮崎が加えた独自な認識がある。それは、全体社会や個別社会を、法という観点から見ることで区別した点である。つまり、個別社会と全体社会の区別は、掟と法の区別として見出される。もちろん、掟も法であり、法的な規範である。ただ、掟は「個別社会」における法的規範なのである。
個別社会は先にいったように、家族、村、労働組合、同業者組合、経済団体などのような基礎的な集団である。個別社会は、その質量を問わずにいえば、共同体である。それは相互扶助(互酬)的であるとともに、内部で共有される規範をもつ。共同体における法的規範の特徴は、それを実行させるために、実力(暴力)を必要としないことにある。そのような規範を宮崎は「掟」と呼ぶ。たとえば、未開社会では、掟を破った者に対する刑罰は不要だといわれる。その者が掟を破ったことが共同体の成員に知られてしまえば、それでおしまいだからだ。共同体から見放されると、人はすぐに死んでしまうのである。また、農村共同体では、掟を破った者は「村八分」になる。したがって、村人はめったに掟破りをしない。同じようなことが、一般に、「個別社会」についていえる。そこでは、法的規範は、明文化されず、罰則規定もないが、めったに破られないのである。
一方、「全体社会」は国民国家のように抽象的な集団である。そこで共有される規範を、宮崎は、「掟」と区別して「法」と呼ぶ。「法」は、それを強制するために、最終的に国家の実力を必要とする。通常、社会は、個別社会の掟で運営されており、「掟」ではカバーできないときに、「法」が出てくる。たとえば、夫婦喧嘩が暴力沙汰に及ぶ場合、親、親戚、友人などが仲裁する。それでも解決できないほどに深刻化すると、警察に連絡することになろうが、そんなことはめったにない。家族内の喧嘩でただちに警察が呼ばれるようでは、もはや家族(個別社会)とはいえない。
そのように「掟」と「法」、個別社会と全体社会は区別される。しかし、宮崎学の考察によれば、日本の社会では、「掟」と「法」の区別が十分に成り立っていない。掟をもった自治的な個別社会が希薄であるからだ。そのため、個別社会のレベルで解決すべきことに、全体社会(国家)がただちにもちこまれることになる。宮崎によれば、その原因は、日本が明治以後、封建時代にあった自治的な個別社会を全面的に解体し、人々をすべて「全体社会」に吸収することによって、急速な近代化をとげたことにある。ヨーロッパでは、近代化は、自治都市、協同組合、その他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。社会とはそうした個別社会のネットワークであり、それが国家と区別されるのは当然である。しかるに、日本には個別社会が弱いため、社会がそのまま国家となっている。そして、日本人を支配しているのは、法でも掟でもなく、むしろ正体不明の「世間」という規範の力である。それはいわば「空気」としてあらわれる。
さらに、宮崎の考えでは、日本は自治的な個別社会を解体したために、国民国家と産業資本主義の急激な形成に成功したが、それは、今やグローバル化の中で通用しなくなっている。それに対して、中国では個別社会――(ぱん)や親族組織――が強く、それが国民(ネーション)の形成を妨げてきた。しかし、逆に、今日のグローバル化の下で、国境を越えた個別社会のネットワークが強みとなっている。もちろん、中国は共産党によって集権的な体制を築いているが、けっしてそれだけではない。このことを見ないと、日本は中国に対する対応において、また間違えるだろう。
ところで、近代日本にかんする宮崎の考えには、何人かの先行者がいる。その一人は丸山真男である。彼は日本の社会に中間勢力や個別社会が微弱であるということを注視してきた思想家であった。たとえば、明治国家はいち早く教育権を握ったが、それが日本ほどスムーズにおこなわれた国は珍しい、と丸山はいう。
 
なぜかといえば、ヨーロッパでは、教会という非常に大きな歴史的存在が、国家と個人との間にあって、これが自主的集団といわれるもの、つまり、国家によって作られた集団ではなく、権力から独立した集団のいわゆる模範になっております。この教会が、教育を伝統的に管理していた。そこでこの教会と国家との間に、教育権をめぐって非常に大きな争いをどこの国でも経験している。ところが日本では、徳川時代からすでに、たとえば仏教のお寺は完全に行政機構の末端になっておった。つまり日本では、寺院がすでに自主的な集団ではなくなっておった。ですから寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて容易だったわけです。そのほか、ヨーロッパでは、自治都市や地方のコンミューンがやはり国家権力の万能化に対するとりでとなり、自主的楽園の伝統をつくる働きをしましたが、この点でも、日本では、都市はほとんど行政都市でしたし、また徳川時代の村にわずかに残った自治も、町村制によって、完全に官治行政の末端に包みこまれてしまったので、中央集権国家ができ上がると、国家に対抗する自主的集団というものはほとんどなく、その点でも、自由なき平等化、帝国臣民的な画一化が、非常に早く進行しえたわけです。(「思想と政治」丸山真男集第7巻p128―129)
 
近年まで、丸山真男は近代主義者、市民主義者、そして、進歩的知識人の典型とみなされてきた。しかし、ここで、彼は、西洋において「学問の自由」という伝統を作ったのは、進歩派ではなく、むしろ、古い勢力、つまり、自主的集団、中間勢力だといっているわけである。宮崎学は右のような丸山真男の認識を正当に受け継いでいる。というより、現在の文脈の上に新しく蘇らせたのである。
最後に、もう一人の例をとりあげておこう。たとえば、和辻哲郎の『風土』は、日本礼賛の書のように見られている。しかし、そこで、和辻がいっているのは、ヨーロッパの都市が、ギルド、同業者組合などの社会的な結合であるのに対して、日本にはそれが欠けている、ということである。しかも、和辻はヨーロッパだけを基準にして日本を見たのではない。中国との比較からも考察している。《シナの民衆は国家の力を借りることなくただ同郷団体の活用によってこの広範囲の交易を巧みに処理して行った。従って無政府的な性格はこの経済的統一の邪魔にはならなかったのである。シナの国家と言われるものはこういう民衆の上にのっている官僚組織なのであって、国民の国家的組織ではなかった》(『風土』)。つまり、和辻は、中国の社会が個別社会の連合体であり、それゆえ、全体社会(国民国家)にはなりにくいことを指摘しているのである。だが、宮崎がいうように、この弱点は、現在においてむしろ強みとなっている。
以上のような先行者について述べたのは、宮崎学が、一見そうは見えないが、日本の思想史・政治史における課題に、誰よりも真正面から取り組んできたことを指摘したかったからだ。われわれはこれまで、徳川時代に始まった「日本」の特異なあり方のおかげ悩まされてきたのだが、宮崎のような認識をもたないならば、それをくりかえすことになるだろう。