熊野大学の再創出
私が初めて新宮を訪れたのは、中上健次が亡くなる三日前であった。生前の中上から何度も誘われたにもかかわらず、ついに行かなかった。何となく億劫だったのだ。中上の死後、新宮に頻繁に行くようになったのは、それを償う気持があったからである。
「熊野大学」は中上が創始したもので、中上の高校の同級生や俳句グループの人たちがやっていた。それはもともと地味なサークルであった。私が熊野大学にかかわるようになったのは、つぎのような事情からである。私は中上健次の全集を編纂するために、浅田彰や渡部直巳らと協議を重ねたが、それをもっと公開的にやったらどうかと考えた。また、全集刊行のキャンペーンを兼ね、多くの講師を招いてシンポジウムを開く、それを熊野大学という場で行う、ということを思いついたのである。
その時、「熊野大学」そのものについてはあまり考えていなかった。中上健次を宣伝することが焦眉の課題であったから。だから、全集が完了し七回忌を終えたころに、やめようと思った。実際、そのあと、しばらく行かなかった。ただ、その間、渡部直巳が地味な会合を続けていた。それでまた、私も参加するようになった。ただ、中上研究だけでは、シンポジウムを続けられない。中上と関連する、もっと広い主題でやろうということになった。高澤秀次が企画を練り講師を集めた。しかし、それも五、六年やると、種が尽きてしまった感がある。これ以上はできない、と私は思った。
そういうわけで、私は、「熊野大学」をどういうものにするかについて、確たるヴィジョンがなかった。中上が考えていた「熊野大学」はこんなものではないのじゃないか、という気持がたえずあった。私が気にしていたのは、東京からどっと物書きが押しかけて、本来の「熊野大学」が消されてしまったのではないか、ということである。われわれの熊野大学には、地元とのつながりがなかった。炎天下の野球の試合(そこでは私は講師ではなく投手であった)だけが、新宮の市民とのつながりであったかもしれない。
しかし、いつのまにか、われわれの熊野大学からも多くの若い人たちが育ってきた。中でも、ほかならぬ中上健次の長女が作家として育ってきた。中上が死去した時点では夢にも思わなかったことだ。私は、この人たちが、また新たな参加者らが、これまでとは違った「熊野大学」を創り出せるのではないかと思う。また、それを切に願っている。
(2009年5月14日)