キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて

 キム・ウチャン教授と知り合ったのは、一九八〇年代アメリカにおいてであった。以後、アメリカと韓国で何度もお会いしている。韓国の雑誌で対談をしたこともあり、一緒に講演をしたこともある。私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある。
 ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。
 私はこの文脈の違いを、近現代史において見るだけではなく、古代から考えてみたい。私は近年『世界史の構造』という本を(韓国でも)出版したが、その中で、帝国と周辺、亜周辺という問題に触れた。以後も、これにかんして、中国の周辺と亜周辺という問題として考えてきた。つまり、コリアはベトナムと並んで帝国の周辺部であり、日本は亜周辺部である。
 しかし、両者の差異が生じたのは、コリアが統一新羅のころ、日本が平安時代のころである。それまでは大差がなかった。違いがあったとしても、それ以後に顕在化したのだ。この時期、日韓いずれでも、「中国化」が進められた。しかし、その深度が違った。日本の中国化は表層的であった。しかし、コリアは本格的で、その後も、科挙による文官制度が次第に確立されていった。王朝の正統性は民意にあるという考えが根を下ろした。高麗時代に武人政権があったが、続かなかった。
 一方、日本では、奈良平安時代に中国から律令体制を導入したものの、官僚体制は成立しなかった。逆に、武家の政権が生まれ、それが明治維新まで続いたのである。また、奈良時代に大王は天皇と名乗ったが、中国的な「天子」の観念はなかった。天皇の正統性はたんに血統で決まったからだ。天皇は政治的権力をもたなかったが、つぎつぎと交替する実際の権力(武家政権)を法的に支える権威として存続した。
 コリアの場合、実際はどうであれ、建前として、民意にこそ天命があるという考えがあった。儒教の核心もここにある。ゆえに、コリアにおける政治は、民衆、というより、それを代弁する儒者、官僚の活動にもとづく。韓国では、そのような人たちがソンビと呼ばれて尊敬される。
 一方、日本の場合、民意(民心)という観念はなかった。また、公然と意見を戦わせる習慣がなかった。日本で尊敬されるのは、いわば、サムライのタイプである。武士道では議論が嫌われ、むやみに死ぬことが奨励されたのである。一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。
 私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。
 しかし、このような違いは、たんに国民性というようなものではない。「世界史の構造」にかかわるものだ。今後の日韓の関係を考える上でも、重要な問題である。それについて、七年ぶりにお会いするキム・ウチャン教授と、お話できるならば幸いである。

2013.6