日本精神分析再考(講演)(2008)
今日、私が「日本ラカン協会」に招かれたのは、かつて「日本精神分析」という論文の中でラカンに言及したからだと思います。そこで私は、ラカンが日本について、特に、漢字の訓読みの問題について述べたことを引用しました。今日、それについて話すつもりなのですが、その前に少し経緯を説明させていただきます。「日本精神分析」という論文は一九九一年頃に書いたもので、「柄谷行人集第4巻」(岩波書店)に収録されています。これは『日本精神分析』(講談社学術文庫)と題する本とは別のものです。後者は2002年に書いたもので、この時点では、前に書いたものに嫌気がさした、というようなことを述べています。かつて「日本精神分析」を書いたとき、自分は日本人論、日本文化論を否定するつもりで書いたけど、結局その中に入るものでしかなかった、と。実際、それ以後、私は「日本論」について一切書いていません。だから、現在の気分としては、読み返すのもいやです。ただ、若森栄樹氏をはじめとするラカン派の人たちに評価され講演を依頼されたため、「再考」を余儀なくされたわけです。再考しても、べつに新たな考えは出てきません。ただ、今日私が話すことによって、皆さんにあらためて考えてもらえばよいのではないか、と思って来たのです。
「日本精神分析」という論文の主題は、私が1980年代後半に考えていた問題です。それは簡単にいうと、丸山真男が『日本の思想』に書いた論点を再検討することです。丸山は、西洋の思想史を基準にして日本の思想史を考察し、次のようにいいました。日本の思想史には、さまざまな個別的思想の座標軸を果たすような原理がない、あるものを異端たらしめるような正統もなく、すべての外来思想が受容され空間的に雑居する、そして、そこに原理的な対決がないために、発展も蓄積もない(『日本の思想』岩波新書1961年)。いいかえれば、外から導入された思想は、けっして「抑圧」されることはなく、たんに空間的に「雑居」するだけである。新たな思想は、それに対して本質的な対決がないままに、保存され、また新たな思想が来ると、突然取り出される。かくて、日本には何でもあるということになる。彼はそれを「神道」と呼んでいます。《「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めてきた。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう》(同上』)。
丸山真男は西洋と比較して日本を考察した人ですが、もう一人、中国と比較して日本を考察した人がいます。中国文学者の竹内好ですね。彼の考えでは、近代西洋との接触において、アジア諸国、特に中国ではそれに対する反動的な「抵抗」があったのに、日本ではそれがなくスムースに「近代化」を遂げた。それは、「抵抗」すべき「自己」が日本になかったからだ、というのです。それは、日本には思想の座標軸がなかったという丸山真男の意見と同じです。つまり、原理的な座標軸があることは、「発展」よりもかえって「停滞」をもたらす。日本の「発展」の秘密は、自己も原理もなかったことにある。竹内好は、一時的な停滞を伴うとしても、中国のような「抵抗」を通した近代化が望ましいというわけです。そして、そのほうがむしろ西洋に近い、と。
私は彼らの考えに別に反対ではなかった。いろいろ考えると、確かにその通りなのです。近代日本のさまざまな問題がこの辺に集約される。ただ、私が問うたのは、ではなぜそうなのか、ということです。その場合、どうしても集団としての日本人の心理を見ないわけにはいかなくなる。広い意味で「精神分析」的にならざるを得ないわけです。
実際、丸山は『日本の思想』のあと、1972年に「歴史意識の古層」という論文を発表しています。これは『日本の思想』の今あげたような問題、神道とか思想の座標軸がないといった話を、古代に遡行して考えようとしたものです。彼はそれを『古事記』の分析を通して行ないました。そのとき、彼が「古層」に見出したのは、意識的な作為・制作に対して自然的な生成を優位におく思考です。古層とは、一種の集合的な無意識です。しかし、彼は「歴史意識の古層」という概念を、それ以上理論的に裏づけようとしていません。
一方、その当時流行っていたのは河合隼雄の日本文化論ですね。「母性社会日本の病理」といった本がそうなのですが、この人はユング派ですから、当然集合無意識みたいなものを実在しているかのごとく扱います。そして、このようにいう。《西洋人の場合は、意識の中心に自我が存在し、それによって整合性をもつが、それが心の底にある自己とつながりをもつ。これに対して、日本人のほうは、意識と無意識の境界も定かではなく、意識の構造も、むしろ無意識内に存在する自己を中心として形成されるので、それ自身、中心をもつのかどうかも疑わしいのである》(『母性社会日本の病理』)。
しかし、私はこのように集合的無意識を何か実在のように扱うことを、疑わしく思います。ある日本人の個人を精神分析することはできますが、「日本人の精神分析」は可能だろうか。可能だとしたら、いかにしてか。ユングの場合、集合無意識という概念をもってくるから、それは可能です。では、フロイトはどうか。彼は集団心理学と個人心理学の関係について非常に慎重に考えています。彼の考えでは個人心理なんてものはない、それはすでにある意味で集団心理だから。彼はまた、個人心理と別に想定されるような集団心理(ル・ボン)のようなものを否定する。では、個人において集団的なものがどのように伝わるのか。それに関しては、どうもはっきりしないのです。例えば、個体発生は系統発生を繰り返すという説をもってきたり、過去の人類の経験が祭式などを通して伝えられる、とか、いろんなことをいうのですが、はっきりしない。
ところが、ラカンはそのような問題をクリアしたと思います。それは彼が無意識の問題を根本的に言語から考えようとしたからです。言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。
このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。もちろん、言語といっても、つぎの点に注意すべきです。たとえば、日本人・日本文化の特徴を、日本語の文法的性格に求める人がいます。日本語には主語がない、だから、日本人には主体がない、というような。しかし、それなら、同じアルタイ系言語である言語をもち、同じ中国の周辺国家である韓国ではどうなのか。不思議なことに、日本文化を言語から考察する論者は、誰もそれを問題にしないのです。
そもそも日本文化の特性をみるとき、西洋や中国と比べるのではなく、韓国と比べるべきだと思います。アメリカ人・アメリカ文化の特性につい考える場合でも同じことがいえます。ふつう人々は、アメリカ(合衆国)を、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、あるいは東洋と比較しますが、私の考えでは、カナダと比べるべきなのです。つまり、アメリカ文化の特性は、同じイギリスの旧属国であり、同じ移民の国であるカナダと比べたときに、初めて見えてくる。なぜ、カナダではこうなのに、アメリカはこうなのか。しかし、これをいう人はほとんどいません。例外は、マイケル・ムーアの、銃による大量射殺事件を扱ったドキュメンタリー映画Bowling for Columbineです。彼は、カナダにはアメリカよりむしろ銃所持率が高いのに、銃を使用した犯罪が起こっていないということに注目しています。これは暴力事件を通した、文化論であり、また、精神分析ですね。私の考えでは、カナダとアメリカの差異は、イギリスとの関係における差異から生じています。
同様に、日本のことを考えるとき、西洋や中国とではなく、韓国と比較して考えることが重要だと思うのです。その点で、明瞭なのは、丸山真男や竹内好の日本論が、西洋や中国と比較して日本を考えたものだということです。それでは紋切り型の認識しか出てこないのは当然です。私のいう「日本精神分析」の特質は、したがって、言語から見るということ、韓国との比較において見るということ、この二点にあります。日本と韓国との違いは、中国に対する関係の違いにあります。
日本と韓国を比べたときに最も目立つのは、漢字に対する態度の違いです。韓国やベトナムなど中国の周辺諸国は、すべて漢字を受け入れたのですが、現在は全部放棄しています。言語のタイプが異なる(中国語が独立語であるのに、周辺の言語は膠着語である)ので、漢字の使用が難しいからです。しかし、日本には漢字が残っている。のみならず、漢字に由来する二種の表音的文字が使われています。しかも、日本では、三種の文字によって、語の出自を区別しています。たとえば、外国起源の語は漢字またはカタカナで表記される。このようなシステムが千年以上に及んでいるのです。こうした特徴を無視すれば、文学はいうまでもなく、日本のあらゆる諸制度・思考を理解することはできないはずです。というのも、諸制度・思考は、そうしたエクリチュールによって可能だからです。
丸山真男は、日本ではいかなる外来思想も受けいれられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがない、と言いました。しかし、それが最も顕著なのは、このような文字使用の形態においてです。漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念はどんなものであれ、先ず日本語に内面化されるがゆえに、ほとんど抵抗なしに受け入れられる。しかし、それらは、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、本質的に内面化されることなく、また、それに対する闘いもなく、たんに外来的なものとして脇に片づけられるわけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されるということになる。
こう見ると、丸山真男がいう「日本の思想」の問題は、文字の問題においてあらわれているということがわかります。特に「歴史意識の古層」というようなもの、あるいは、集合無意識のようなものを見なくてもよい。漢字、かな、カタカナの三種のエクリチュールが併用されてきた事実を考えればよいのです。それは現在の日本でも存在し機能しています。日本的なものを考えるにあたって、それこそ最も核心的なものではないか。私はそう考えたのです。ところが、調べてみると、不思議なことに私が考えようとしたことを誰もやっていないんですね。どんな領域でも何かをやろうとすると、すでにそれに手をつけている先行者が必ずいるはずなのですが、いない。
しかし、実はいたのです。それがラカンでした。実のところ、私は、若森さんが訳したラカンの短い論文を読んで、ラカンが日本の文字、特に漢字の訓読みの問題について非常に関心を持っていることを知ったのです。さらに彼は、「エクリ」の日本語版序文では、「日本語のような文字の使い方をするものは精神分析を必要としない」、そして、「日本の読者にこの序文を読んだらすぐに私の本を閉じる気を起こさせるようにしたい」、とまで言っているわけですね。そのラカンが注目したのは、日本で漢字を訓で読むという事実ですね。彼はこう述べています
本当に語る人間のためには、音読み(l'on-yomi)は訓読み(le kun-yomi)を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているペンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところを見ると、実はそれらが作り上げている人々の幸せなのです。
どこの国にしても、それが方言でなければ、自分の国語のなかでシナ語を話すなどという幸運はもちませんし、何よりもーーもっと強調すべき点ですがーー、それが絶え間なく思考から、つまり無意識から言葉(パロール)への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。精神分析のためにたまたま適当とされていた国際的な諸言語のなかから取り出してみせるときには、やっかいな逸脱があるかもしれません。誤解を恐れないで言えば、日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、嘘つきであるということなしに、真実を語るということは日常茶飯の行いなのです。(1972年1月27日)
実のところ、私は、これが何を意味するか、いまだにわかりません。皆さんの意見をうかがいたいと思っています。ただ、私はかつてこう考えたんですね。日本人は漢字を受け入れたときに、それを自国の音声で読んだ。つまり訓で読んだわけです。その結果、自分の音声を漢字を使いながら表現するようになる。これはありふれたことのようですが、実はそうではないんですよ。
一般に外国から文字を受けとるというのは当たり前で、世界のいくつかの文明の中心を除くとほとんどの地域はそれを経験しているわけです。ヨーロッパでも同じですけどね。ただアルファベットを得たからといってすぐその国で言葉を書き始めたりするということはないわけですね。それが出来るようになるのは中心からきた、文明から来たテクストを翻訳するという形で自国の言語を作るということですね。たとえば、イタリアでは、ダンテがラテン語で書けるものをあえて、イタリア地方の一方言に翻訳して書いた。その一方言が現在のイタリア語になっています。つまり、ダンテが翻訳を通して作った言葉を、今のイタリア人はしゃべっているわけです。
私は明治日本における言文一致という問題を考えたときに、そのことに気づいたのです。たとえば、「言文一致」という場合、その言い方が何とか妥当するのは、東京地方だけですね。他の地域の人々にとって、言文一致の文章とは、「言」(口語)とは無関係な、新たな「文」なのです。そして、まもなく、このような文で話すようになっていく。
こう考えたとき、私が思い至ったのは、明治におこったことは、すでに、奈良時代から平安時代にかけても起こったはずだということです。
たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。
あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。
私が注目したのはそのことです。韓国では、中国の制度=文明が全面的に受け入れられた。科挙や宦官をふくむ文官制が早くから確立されています。しかし、日本では中国の制度=文明を受け入れながら、同時に受け入れを拒んでいる。その奇妙なあり方が文字のあり方としてあらわれているのです。私はそれを、ラカンから学んだ考えで説明しようとしました。結論としていえば、日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。この見方は日本の文化・思想の歴史について、あてはまると思います。つまり、丸山真男などが扱ってきた問題は、このような文字の問題を通した「精神分析」を通してこそアプローチできるのではないか、と私は思ったのです。
私はつぎのように書きました。《ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させているーー真実を語っているーーからである》。したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになります。
このラカンの日本論を読んで、私が思い浮かべたのは本居宣長のことです。宣長は『源氏物語』についてこういっています。《「物語は、おほかたつくりこと也といへども、其中に、げにさもあるべきことと思はれて、作り事とはしりながら、あはれと思はれて、心のうごくこと有と也。……然ればそらごとながら、そらごとにあらずと知べしと也。……物語にいふよしあしきは、儒仏の書にいふ、善悪是非とは、同じからざることおほき故に、そのおもむきいたくことなる也》(『源氏物語玉の小櫛』)。つまり、物語にいう「よしあしき」は儒仏の書に言う「善悪是非」とは異なる。物語は作り事、そらごとであるが、それによって表現される「もののあはれ」こそが「真実」なのだ、というのです。ここでラカンがいったことを思い出して下さい。《日本語を話す人にとっては、嘘を媒介として、ということは、嘘つきであるということなしに、真実を語るということは日常茶飯の行いなのです》。
宣長はこのようなものの見方・考え方を「やまとごころ」と呼びました。これをと言っても同じです。私が「日本精神分析」という場合の「日本精神」とは、このような大和魂のことです。これは一般に言われているような軍国主義あるいは体育会系の日本精神とは違って、ぶり(フェミニニティ)ですね。実際、大和魂は、紫式部が『源氏物語』の中でつかった言葉なのです。いうまでもなく、それは漢語では表現できないものです。
やまとごころの反対概念が漢意(からごころ)です。それは具体的には儒教と仏教の考え方を指すのですが、もっと一般的に、知的、道徳的、理論体系的な思考だといってもいいでしょう。それはいわば、漢字で表現されるような概念を指します。軍国主義的な日本精神なるものはむろん、漢意です。それに対して、宣長は「もののあはれ」というような感情をもってきます。しかし、それはたんなる感情ではない。それは、知的・理論的ではないけれども認識的であり、道徳的ではないが深い意味で倫理的なものだ。そうして、それがやまとごころなのだ、というのです。
また、宣長はこういうことをいう。仏教では悟りをえたら、死んでもいいというけれども、それは嘘だ、たとえ極楽に行くに決まっていても、死ぬのは悲しい、というのです。神に関してもこういうことをいっています。善い神だけでなく悪い神もある、悪いことをしても幸福になる場合もあり、善いことをして不運に遭う場合もある。だから、神を道理にあうかあわないかというようなことで判断してはならない、と。こういうところを見ると、「日本人はつねに真実を語っている」というラカンの言葉はうなずけます。
宣長のいうことは儒教を批判した老荘の思想に似ているといわれるのですが、彼は老荘をもまた漢意として批判します。老荘が説く自然は、人工的な儒教思想に対して人工的に考えられた自然にすぎない、と。やまとごころというと排外主義的に聞こえますが、宣長は日本の神道もまた漢意であるといいます。神道というのは、仏教や儒教に対抗して人工的に作られた体系である、と。それに対して、宣長がいう自然は歴史的事実である。それが「の道」であり、それを探究するのが「古学」なのです。
宣長は自分の学問を「古学」と呼び、一度も「国学」とは呼んでいない。また、彼は「古の道」を現在の世に実現しようなどとは考えなかった。彼が実際にとったのはむしろ、穏健な漸進的改革派の立場です。たとえば、彼は浄土宗の門徒であり、それを否定しなかった。一方、「国学」を創ったのは、宣長の死後に出てきた平田篤胤です。それは理念として想定される古代の社会を今の世に実現するという政治思想となります。そして、明治維新、王政復古の思想につながっていった。しかし、宣長が生きていたら、まちがいなく、篤胤のような考え方を漢意として批判したでしょう。
宣長がいう大和魂というのは、作為性とか抑圧性を斥けるものです。こうしてみると、大和魂はなかなかのものです。こういう人たちには確かに精神分析の必要はないでしょう。しかし、これが古代の日本人に実際にあったとはいえない。また、日本人であるというだけでもてるわけではない。「古の道」とは、宣長が一種の分析を通して得たものなのです。それを理念として積極的に立てると、必ず平田篤胤のいうような神道的理念になります。大和魂はたちまち日本精神となる。つまり、やまとごころというのは実際には得難いものなのです。それを得ること、維持することには大変な知性と意志が必要となる。宣長はその方法を提示した。それが「古学」なのです。しかし、古学といっても『古事記』を読めばいいというわけではない。その前に『源氏物語』を読むことを勧めています。それを通して漢意を脱していく必要がある。その過程は精神分析のようなものです。だから、日本人には精神分析は不要だというラカンに対して、やまとごころをもつためにはやはり精神分析が必要だ、と私はいいたいのです。
時間がないので、この辺で終わりますが、私は2002年に「日本精神分析」について書いて以降、このような文字の問題、あるいは日本の問題、文学の問題について書くことをやめました。この間ずっと考えてきたのは「世界史の構造」です。その中では、特に日本のことは出てきません。しかし、私が考えていることは、根本的には日本人としての経験から出てきたものです。ただ、それを日本のこととして語りたくないのです。今日、それについて話したのは、ここが「日本ラカン協会」という場だからです。このような機会を与えて下さったことに感謝します。
(2008年12月7日)